自宅にはテレビがない。
僕にはテレビを観る習慣がないし、嫁もテレビを観ない今の生活スタイルを気に入ってるみたいなので、買う予定も特にない。
 
テレビが元ネタの話になるとついていけないことが多い(ホント、誰でも知ってる芸能人の名前や顔が分からなかったりする)ので、なぜテレビを観ないかを聞かれることが時々ある。
 
理解ある友人や仕事仲間には「時間の無駄じゃん」とか「ノイズとシグナルが整理できなくなる」とか一言いえば済む(このブログの結論もここにたどり着く)。
 
ただ、以前会社の同僚だった人に「やばくないすか!?」的なノリで突っ込まれたことがあった。
その当時の僕なりに彼の質問に答えたがあまり納得してもらえなかった。
僕自身も「なぜテレビを観ないほうが良いのだろう?」ということをそこまで深く考えていなかったので説明も曖昧だったと思う。
 
彼の言い分はこうだ。
 

  • この情報社会でテレビからのインプットが無いのは大きな機会損失だ
  • テレビは面白い
  • 暇な時は何をしているんだ?

 
今ならこれらの疑問に応えられる。
 
 
 

この情報社会でテレビからのインプットが無いのは大きな機会損失か?

 
まず彼のように凡庸な人間の抱く「情報社会」のイメージとは「持っている情報の量を競い合う社会」のように推測される。
つまり重要だろうが重要でなかろうがたくさんの情報で脳みそのハードディスクをいっぱいにしている奴の価値が高いという文化だ。
彼らは情報の量を競っているわけだから、その中の何が「知恵」で、何が「知識」で、何が一過性の「情報」なのか区別を付けることに意味が無い。
 
ちなみに知恵、知識、情報の区別はこうだ。
 

  • 知恵
    最初は理解できなくても幾度となくトライして、自らの血や肉としていくべきもの。
  • 知識
    所謂ハウツーやハック。仕事もしくは生活の質や生産性を向上させるもの。
    文字や図など、適切な媒体による説明で赤の他人に伝えることができるという性質がある。
  • 情報
    一過性の意味や価値しか持たず、脳内にある RAM の一部に割り当てれば十分なもの。

 
知恵のアウトプットは「技」と呼ばれる域に達することが多い。
技とは、その人の頭の中、舌の中、指の中などに実体があるもので、物理的に盗んだりコピーしたりすることが非常に難しい。
頭のいい人は本やスピーチで知恵を伝えることが出来るかもしれない。
しかし本質的には、知恵を持った人と一緒に同じ問題に取り組むことによって以心伝心するしか方法がないように思う。
 
知識のアウトプットは「技術・テクニック」だと思う。
知恵への扉であり、他人に広く伝えることが目的の一つと言っても過言ではない。
テレビから少し離れた媒体(本やインターネット)でこの層が比較的厚くなるのは必然だと思う。
 
情報のアウトプットは情報だ。
アウトプットされる際に元々その情報を持っていた人のバイアス(性質的な偏り)によって歪められることも多々ある。
 
一言に情報と言ってもこのような区別があることを認識したほうが良い。
「情報社会」というシンボル的もしくはエイリアス的な表現で丸め込んでしまって、その中身を無視するのは単なる怠慢だ。
中世ヨーロッパにおいて「魔女」という一括りの言葉で何人ものマイノリティが殺されていた悲劇を繰り返してはいけない。
 
テレビがどのような性質の情報に重きを置いているかは個人によって認識が分かれるところだと思う。
僕個人としては「テレビには大事な情報やヒントも少なからず含まれているだろうが、それ以上にどうでもいいことが多すぎる」と思っている。
 
テレビはトレンディだ。
言い換えれば、短期的・中期的なリターンの大きい物に重心を傾けている。
つまりそのトレンドが通過すれば吹き飛んでしまうような情報や輩が多く集まっている。
長期的なスパンで見た時に価値のある情報(最後に勝つタイプの情報)は、往々にしてトレンディではない、もしくは視聴者が賛同しそうにないという理由で無視される(個人的には一番価値があると思うんだが・・・)。
 
もう一つ。テレビは鈍い。
先の「テレビはトレンディだ」と矛盾するように思うかもしれない。
しかしこれも事実だ。
なぜなら、テレビ局という企業はテレビ放送をするために莫大な資金が必要だからだ。
莫大な資金を投入するためには出資者を納得させなければいけない。
出資者が大金を払うのは、それ以上のリターンが目的だからだ。
テレビの即物的な性質と相まって、テレビ自身も出資者も望んでいるのは短期で回収できるリターンだ。
短期でリターンを回収するためにはひとつの情報を出来るだけ多くの人々に伝えようとする。
すると、多くの情報の中でより一般性・大衆性の高い情報が重要視されるようになる。
逆に言えば、専門性の高い情報や、一部のアーリーアダプターしか価値を認めていないようなものは体よく無視される。
つまり、テレビは鈍い。
 
さて、ここまで読んでもらえればなんとなくでも「テレビは要らない」と言っている僕が、一過性の情報よりも知識、知識よりも知恵に重きを置こうという傾向にあることは察していただけるだろう。
 
そのような性格の人間にとって「テレビを観ないことは機会損失につながるか?」という質問は愚問でしかない。
定量的に見れば(つまりテレビの話についていけない頻度などを基準にすれば)、明らかな機会損失だ。
しかしこの機会損失で逃しているチャンスの実体(定性的な部分)を考えてみると、せいぜいテレビの話でお茶を濁せないぐらいなもので、これは無視できるリスクだ。
 
それよりもテレビを観ること(もう少し言うと観過ぎること)で被る損害の方が大きい。
これはこの後のセクションに引き継ぐ。
 
 
 

テレビは面白いか?

 
テレビは残念ながら面白い。
自宅にテレビが無い分、外出先でテレビがついていると見入ってしまう。
 
これだけ読むと「お前さっき言ったことと違うじゃねぇか」と言われそうだ。
でもそうではない。テレビと自分の「関係」に目を向けた時に問題が浮かび上がる。
 
問題は、テレビが何も考えずとも単純に面白く、すぐに楽しめて、気が付くと数時間があっという間に過ぎてしまうことだ。
そしてもっと悪いのは、その無駄な数時間が過ぎた後の後悔だ。
その時間をもっと別なことに使っていればあれもできたこれもできたと悔やむ。
後悔に浸っていると何も手に付かない時間が過ぎる。
何も手に付かないから「気晴らしに」とか言ってまたテレビをつける。
数時間が過ぎる。後悔する。言い訳を始める。テレビをつける・・・。
完全に悪循環だ。
最終的には酷いストレスが残る。
 
人間には「欲求」と「欲望」という二種類のモチベーションがある。
 
欲求とは生存のために必要なものを得ようとすることの原動力。
欲望とは選択の余地がある行為を促す促進剤のようなものである。
 
テレビには「観ない」という選択があるし、現にテレビを観なくても僕は生存しているから「欲望」の方に分類される。
 
ここで十分に注意しなければいけないことがある。
欲望は欲求を覆い隠すということだ。
 
上に例を挙げた「テレビを長時間観てしまってやりたいことができなかった」というのもそうだし、「ドラマの続きが気になるからトイレを我慢する」とか「悲惨なニュースで食欲がなくなった」という経験があなたにもあるだろう。
ここで問題なのは、本来選択の余地のある「欲望」が、生存のために必要な「欲求」よりも優先されてしまっていることだ。
そして当然ながら、テレビとはこの「欲望」を増長するようにうまく作られている(ほら、よく聞くでしょ?「メディアに踊らされてる」とか)。
 
「欲望」という言葉の響きが悪いなら「娯楽」と言い換えてもいい。
いずれにしろ、テレビを(いや、テレビとの関係を)楽しむなら、「これは娯楽だ」と割り切って「欲求」よりも優先させてはいけない。
 
つまり「テレビは面白いか?」と問われれば、「テレビは面白いが、付き合い方が難しい」と答えるしかない。
 
 
 

暇な時は何をしているのか

 
これは相対性の問題だ。
 
テレビを毎日観ることが習慣となり、それを常識と勘違いしている彼(冒頭に出てきた元同僚)はニュートンの絶対空間の中で生きているのかもしれない。
彼が住んでいるエーテルに満たされた世界に比べると、僕らのように「欲望を選択する自由」を与えられた者達が住んでいる世界は少しだけ複雑に映っている可能性がある。
 
必要以上に決め事の多い世界では彼のほうがうまくやっていくだろう。
なぜなら決め事を疑わないからだ(これは素晴らしいストレス回避法だ)。
 
しかし彼らとは違う世界が僕の前には横たわっている。
 
決め事にぶち当たったらまずその理由を洞察し、必要であればより良いルールに変えていく(たいていはそのルールをドキュメント上から消す羽目になるが)ことに対して億劫になっては食っていけない世界で暮らしていると、「空間はどこを切り取っても絶対だ」とか「物質間の隙間はエーテルで満たされていて、光はエーテルを媒介に伝わる」なんて迷信じみたことは簡単に信じる訳にいかない!
 
彼ら(テレビ絶対主義者)にとっては、テレビを観るべきなのに観ていない時間は、イコール、空白の時間なのかもしれない。
つまり「テレビを観ない」という選択をした結果、辿ることになった経路を確率論的視点・統計的視点の両方で彼には想像すらできない。
まず「テレビは観ません。そもそも家にテレビがありません。」と僕が言うと、彼にとっては直感的に嘘に聞こえる。
長々と説明して事実だということを知らせても、彼の中では僕という人間に対して「変人」「理解不能」「取るに足らない少数派」というレッテルが貼られるのが落ちだ(経験上、〜絶対主義者とはそういうものだ)。
 
ここでの問題は、文字通りに「暇な時は何をしているのか」ではない(そんなことは誰にも教えたくない)。
 
問題なのは「〜をしていないなんて信じられない。じゃあ〜をしていないときは何してるの?」という、とーーーっても狭い視野で世界を見ている、そしてその視野の範囲で満足してしまっている態度だ。
 
彼らは知るべきである。
 
「この世界の住人はお前らだけではない。」
 
僕は彼らに出会うと、なるべくこのことを伝えるように努力しているがなかなか伝わらない。
 
では、テレビ絶対主義者のコンテクストで「暇な時は何をしてるんですか?」と聞かれたらどう答えるのがよいだろう?(禅問答みたいになってきた・・・)
 
「テレビを観ます。」と言ったら嫌われそうだし、現実に即してない。
 
現実は、全く暇がないほど忙しくはないけど、テレビを観るほど暇ではない。
 
 
 

§1262 · Posted By · 1月 19, 2014 · Business · Tags: · [Print]